後継者

 今日のようにパソコンが普及している中で、速記界も反訳手段の1つとして大いにパソコンを活用していますが、その中で速記は生き残れるかどうかについて書いてみたいと思います。

 ご承知のように速記界はパソコンブームと言われるぐらい、プロの速記者はもとよりアマチュアの速記者までがパソコンを活用しています。なぜパソコンがこんなに普及したかという原因には、日本語の入力がカナタイプのように少ないキーボードにより短時間でカナ漢字変換により日本語の入力が簡単にでき、また、挿入削除ができるという利点があるからかもしれません。おまけに私のような悪筆の者にとって便利なものだと思っております。和文タイプですと、文字が一応打てるようになるまで半年はかかります。パソコン場合は、人によっては数カ月で打てるようになる利点があります。

 最近のパソコンはインターネットや電子メールの接続が簡単にできるので、パソコンを買う人がふえているのが現状かと思います。しかし、その反対にパソコンを使用することによって漢字を忘れるという現象が起こっております。さらに悪いことには、国語力のない者が使うと誤字に気がつかないという結果になります。速記を学んだ人達は、反訳をする過程において原稿用紙に書くので知らないうちに国語力がついています。

 私の場合、中学、高校時代に書いたものを見ると、今では考えられないほど誤字を平気で書いていました。速記学校に入ってからは大分気をつけて書くようになり、今では辞書を引く習慣がついております。

 さて、本論の速記後継者について書いてみたいと思います。

 序論で書いたように、パソコンの普及によりテープレコーダーとパソコンがあれば速記を知らなくとも速記者と同じようにテープ起こしができると言われております。果たして、速記を知らない素人が職業速記者と同じ原稿ができるかと言うと、それは疑問があります。速記者は、速度練習の過程において言葉を聞く力がついているからテープ起こしも簡単にできます。もし、素人が同じことをやれば相当の国語力のある人でも大変な作業になると思います。

 現在、速記の学習者が減っていることはご承知のとおりですが、また速記がなくなると思っている人も多いようです。確かに、職業速記者は減るかもしれません。しかし趣味の速記、アマチュアの速記は生き残ると思います。速記の学習者は減っても速記の愛好者は残ると思います。その速記を後世に残すには、アマチュア用の速記の普及をしなければなりません。どの方式が生き残るかはわかりませんが、ただ言えることは速記の普及に地道に努力している方式のみが残ると思います。それは各方式がこれからどうやって速記を残していくかという課題にあると思います。

 私のような、速記界の底辺にいる者がとやかく言うよりも、日本速記界の上層部が真剣に考えなければならないことですし、我々若い世代もそのことを踏まえて速記を後世に残すにはどうすればよいかを真剣に考える時期に来ています。つまり、速記を残すかどうかは、我々若い世代に与えられた使命でもあり、その使命の自覚をしなければ速記は過去の遺物や太古の文献になってしまいます。

 我々が60代、70代になったとき、速記がなくなっていたら、それは寂しいことではありませんか。

 若者よ、速記を後世に残すために頑張ろうではないか!!

 

 

充実感

 人間は自分の好きなことをやっているときが一番充実をしていると感じると思います。それは、金銭を抜きにして第三者にとりクダラナイことに夢中になることが、本人にとりそれが充実したものである場合があります。それは価値観の違いかもしれませんが、人間、自分の好きなことに熱中できることがあることはすばらしいことです。

 さて、かく言う私も速記の道に入ったのが昭和40年7月2日です。このころ私は中学3年生で、普通ならば高校入試で受験勉強に追われている時期で速記の勉強どころではないはずです。生来、のんきな私は受験勉強をしたことがなく、速記だけは勉強しておりました。高校入試も、受ければどこか1校ぐらいは受かるとのんきに構えていたわけです。

 父が早稲田式の通信教育をその年の2月から受けていたのを知っており、夜、速記の勉強をしていたのを今でも覚えております。父は仕事が忙しいので、7月1日になって私に速記を勧めたのがきっかけで、速記がおもしろく思い速記の道に進みましたが、母は三日坊主だからすぐにやめると言っておりました。私自身も半分そう思いましたが、生来暗号が好きだったので、速記も暗号と共通していたので今でも続いているのだと思います。模造紙に50音を書いて天井に張って、夜寝るときと朝起きるときには必ず一通り目を通しておりました。そうすることによって、速記に対する愛着がわいてきたわけです。

 いかに速記が好きになるかが大切で、ただやみくもに速度練習にのみ追われないで、精神論の方が先走っていたようです。つまり、自分にとって速記とは何かということがあったと思います。それが現在でも続いているのは、速記を楽しむための何かがあるからと思っております。

 以前、大阪府のKさん(日刊工業新聞社の記者)が「速記が好きだから職業にしなかった」と言われました。私は、これは明言だと思います。自分の好きなことを職業にできれば、それはその人にとってこれほどすばらしいものはありません。しかし、もしそれが嫌いになったとき、幾ら自分の好きなことでも苦痛になります。そうなれば自分の好きなものを他に求めるか、その仕事をやめてしまうしか道がなくなります。

 速記は、考え方によっては楽しいものであり、またつまらないものになってしまいます。

速記を技術として考えるか、学問や芸術として考えるかで違ってきます。速記を単なる技術や道具としかとらえなければ、それはつまらないものになってしまいます。道具は道具として、そのスピード狂になればまた違ったおもしろさが出てくると思います。社団法人日本速記協会で行っている高速度競技会に入賞すれば、これもまたおもしろみがありますが、そこまで技術が向上するのには相当な努力が必要です。しかし、別の角度から速記を学問的、あるいは芸術的に見るのもおもしろいことです。そこまでいくには、速度もある程度なければいけませんし、ただ、速記術の大家=速記学の大家とは言えませんが、速記科学研究会には、この両方の人物が多いことは特例として考えなければなりません。一般的には、そのどちらかに属しているからです。

 道楽という言葉を辞書で引くと「本職以外の趣味などにふけり楽しむこと、物好き、酒・女遊び・ばくちなどにふけること」とありますが、私の解釈としては「その専門の道を楽しむこと」であり、速記の道(学問・芸術・精神)ではないかと思います。趣味よりもさらに奥が深いものであり、金儲けのものではなく、その道を楽しむことだと思っております。そのためには、自分自身の興味がある文献を調べたりするのもおもしろいと思います。

 私の場合は、速記の資料を作成したり、速記のことを考えているときが自己の世界に入りそれが充実しているときこそ、口で言いあらわすことのできない充実感を味わっております。

 

 

アマチュア速記と職業速記

 明治15年以来田鎖綱紀翁によって速記が発表されて今日に至るまで速記は職業速記者のものということを中心に符号の研究、改良がなされてきたことは事実です。

 この120年間において、速記符号の進歩も著しいものがありました。現在の我々が明治時代の速記符号を見ると、よくこれで書いていると感心をしたり驚いたりしています。昔は、現在のように話す速度も早くなかったようで、それで間に合っていたようです。時代が進むにつれて話す速度も早くなり、符号の研究が盛んになり、符号自体も簡単になってきました。中には高速度を目指さない方式があらわれたことを忘れてはなりません。

 昭和4年に発表された菅原長太郎氏のカナ文字を応用した方式もありました。この本は筆記難に苦しむ学生に人気があり、発行所も三省堂だったのでかなり売れたようです。このほかにも、カナの一部を崩したカナ速記が出現したことを忘れてはなりません。

 これらは、速記というよりも早書法(はやがきほう)と言った方がよいかもしれません。これが現代でいうアマチュア速記だと思います。

 次に符号速記について、中根式を例に挙げて書いてみます。これは昭和63年4月ごろに気がついたことですが、速記には3つの符号体系があります。

 

 普及用の符号体系

 これは、通信教育とか学生向けのアマチュア用で骨組みだけの簡単なものを指しており、速度的に240〜280字程度のものを言います。練習によってはもっと早く書けますが、符号量において覚えることを少なくしたものです。ただし画数は多くて、一応メモなどには不自由しない程度のものを言います。

 

職業速記者の符号体系

 これは速記学校などで指導しているもので、かなり細かい書き方にまで及んでおり、速度も320〜360字程度のものを言います。符号量として身を入れて覚えなければなりません。

 また、前記の普及用の符号体系は指導者がいなくとも自分なりに独学も可能であり、全体系を使わなくとも用途に応じて好みの符号を使えます。

 職業速記者用の符号体系は、細かい書き方にまで及んでいるので、指導者の経験により多少異なっています。

 

研究開発の符号体系

 これは先の普及用、職業速記者用の符号体系とも関連があります。これは時代とともに言葉が変化しますので、その時代にあった言葉を書くために新しい法則が必要になってきます。そのために旧来の法則を廃止して、体系的に不統一にならないように、常に新しい書き方を研究しています。研究によりさらに画数が減り、符号がさらに簡単になります。

 結論は、どの符号体系を選んでも符号体系として最終的に一貫していなければなりません。中根式の場合、指導者により符号体系が違います。これが、速記を学問的に見るとおもしろさがあります。先の分類によって中根式の法則体系を書きますと(これには多少の問題がありますが、私の独断と偏見により)次のようになります。

   1普及用……中根正親の体系、中根正世の体系、森下等の体系、稲垣正興の体系。

   2職業速記者用……池田正一らの体系、植田裕の体系、森卓明の体系、稲垣正興の体系。

   3研究開発用……武部良明の体系、植田裕の体系、森卓明の体系。

と大別できます。両方にまたがる法則体系もあります。ただ、どの法則体系から入っても、途中で別の法則体系を取り入れることは可能です。

 速記の指導者(中根式に限ると)は、自分が習得した法則体系のみにとどまらず、中根式関係の他の符号体系にも精通しておくべきです。そうしないと時代に合った符号の指導はできないし、旧来の符号体系を指導していると、習った生徒も書きにくい符号を書かされて迷惑をこうむるからです。無論、生徒はそんなことは知る由もありませんし、それが速記だと思って忠実に書いているからです。指導する側にもその辺の意識が必要と思います。

 

 

趣味と道楽の違い

 現在は余暇を楽しむ時間が多くなっております。二昔前だったら、休日は日曜と祝日、お盆休み、正月休みだったものが週休2日制の導入によって、その分個人的な時間がふえております。しかし、日本人は、この余暇の利用が下手な民族だと言われておりますが、新人類と言われる人達はこの時間をうまく使っているようです。

 では、我々旧人類はどうなのでしょうか。毎日、仕事に追われ休日となればグッタリしている人が多いと思います。

 また、正月休みのように、長い休みをどうやって過ごそうかと考えている人が多いようです。趣味や道楽を持っていないと、時間を有意義に使うことはできません。

 日本人は不思議な人種で仕事が終わってから会社の仲間と酒を飲んでいても仕事の話をしております。私の場合は、もともと酒は好きではないので、忘年会などはいつもうんざりしております。

 酒を飲んだときぐらい、仕事の話をされると酒がまずくなってしまいます。酒を飲んだときぐらいバカ話をすればよいのにと思っています。趣味がないから話題に欠けていると思います。

 趣味は自分の好きなことであり、嫌になればいつでもやめることができます。ですから、内容も専門的に詳しく知る必要もありませんし、気楽にやっていればいいと思います。広く浅くということになります。

 つまり、飽きたらいつでもやめられるものと解釈をしております。

 しかし、道楽は違っております。道楽の場合は自分の本当に好きなことであり、それがライフワークになっており、道楽にかけては金を惜しまないものを指しております。そして、知識も専門的であり狭く深いものです。また、そのことについても一家言の持ち主であり、その道を楽しむものです。

 ですから、道楽は人が何と言おうとやめられないものです。趣味よりもさらに奥の深いものです。

 ここまで書けば、私が何を言わんとしているか大体つかめたと思います。結論を先に言いますと、私にとり速記は趣味を通り越して道楽になっています。

 速記は人によりとらえ方が違います。一番多いのは道具です。私は、それについて反論をいたしません。Aという人にはただの道具かもしれません。またBという人には趣味かもしれません。Cという人には学問かもしれません。Dという人には芸術かもしれません。

Eという人には哲学かもしれません。Fという人には教養かもしれません。Gという人には精神かもしれません。Nという人には道楽かもしれません。

 つまり、速記とはその個人にとり、どのようにとらえられているかです。速記は職業速記者のものだけである時代は去りつつあります。速記は職業速記者のものだけであっていいのでしょうか。昔は、プロでなければ速記者にあらずという風潮がありました。果たして、速記を学習し1級に合格した人達が全員職業速記者になったとは言い切れません。1級に合格しても職業速記者になった人は一部分の人達です。1級に合格をするまでに途中でやめた人は数え切れません。とにかく、速記の場合は3級に合格をすればまだよい方です。速記学校に入学をしても1カ月もしないうちにやめる人が多くおり、通信教育についてはなおさらです。果たして速記は難しいものなのでしょうか。速記文字を覚えること自体は難しくないと思います。速記文字を反訳すること自体が難しいと思います。それは、速記を好きになれるかどうかにかかっていると言っても過言ではありません。速記をやったから必ず職業速記者になることはないし、趣味でもよいのです。速記を道具だと思っているから、つまらないものになってしまいます。これからの速記については、学問としての速記、芸術としての速記、教養としての速記があってもよいと思います。

 ただし、日本速記協会の3級に合格する程度の速記力は必要です。分速240字の速記力があればメモ程度には結構間に合います。私が言いたいのは、速記に対して徹底的に好きになることが重要なことです。では、速記のどの部分が好きになればよいのかは人により違います。速記史が好きな人、速記符号の研究が好きな人、速記理論(速記学)の好きな人、などが考えられます。速記の中にあるどの一部分でもよいから好きになり、趣味を通り越してこそ本来の速記道楽だと思います。

 

 

速記は暗号となり得るか

 速記と暗号について書いてみようと思う。

 速記は果たして暗号と言えるだろうか。暗号とは「第三者に通信の秘密を漏らさないための、当事者にしかわからない約束の記号」と角川国語辞典に書かれている。

 また、昭和46年12月9日発行のダイヤモンド社刊「暗号−原理とその世界−」長田順行著の中には、速記は暗号の1つとして紹介をされている。

 暗号という言葉はイメージ的にはよく思われないようであるが、それはともかくとして速記は暗号になり得るものであろうか。

 昭和51年11月10日発行のベストブック社刊「暗号手帳」長田順行著の146ページに「速記暗号」として紹介されているのを書いてみよう。

 ミミズがはい回ったような速記文字、これだって速記を知らない人にとっては暗号だ。速記式暗号ではサミュエル・ピープスの日記が有名だ。これは速記文字に換字式の暗文をまぜたものだが、これを全部解読するのに3年間もかかった、と言う。

 ところで速記暗号作戦である。君とその仲間が速記を練習して覚えてしまえば、すぐ仲間同士で使える。でも急の間に合わないな。

 ここでは速記を使った「ニヒリストの通信文」式暗号を考えてみよう。

 まず速記文字の特徴は1本の線のカーブや方向で1文字を示すことだ。日本語の速記文字は、すべて線から成り立っている。これを続けて書くからミミズ文字みたいになるのだ。しかも速記者は、標準の速記記号とは別にそのときによく出てくる言葉、例えば座談会なんかでは人の名前を1つの記号にしてしまう。だから、速記を知っていると言っても人の書いた速記文字は、専門家でもなかなか読めないと言うよ。

 それはさておき、速記は線の方向とカーブであらわした文字だとすると、文字のかわりに、つまり例えば「アとイ」の間で必ず、線の方向や角度が変わっている。まずこれを読み取れるようにしよう。(図を見ればわかるだろう)

 次に、どこまでが1字かがわかれば、この速記文字の中に、小さな点を入れていく。

 暗号は、この点から点までの文字数を使うのだ。

 また、速記文字とは別に、文字を数字にかえる表をつくっておく。この表と、速記文字につけた区切り点で暗号は完成。(ニヒリストの通信文を参考にしてくれたまえ)

と書かれている。図としては石村式の基本文字清音が掲載されている。

 長田順行氏は暗号研究家であるが、速記も暗号の1つとして考えられているようである。

 昭和48年3月1日に社団法人日本速記協会で発行された「速記の歴史<西洋編>」向井征二著の16ページにもサミュエル・ピープスのことが書かれている。

 トマス・シェルトン(1620〜1659年ごろ活躍)はジョン・ウィリスの方式をより改良して Short writing(1626年に第1版、30年に第3版)やTachygraphy(1638年)を出版したほか、ロンドンの目抜き通り4カ所に教授所を開いて多くの生徒を集めた。

 彼の方式をサミュエル・ピープス(1633〜1703年、官吏・日記作者)が学び、それを用いて有名な「ピープスの日記」を書いたことから、シェルトンの名は今日も私たちに親しいものとなっている−

 なお、「ピープスの日記」については「日本の速記」71年11月号所載・花樹薫「記録日記」を参照されたい。

 また、花樹薫(本名・星野義男)氏の、「日本の速記」昭和46年11月号の「記録日記」によると

 (前略)今、英国の読書界で「サミュエル・ピープスの日記」が公刊され、大きなセンセーションを起こしているという。(中略)

 ピープスの死後、彼の残した原稿は遺言で幾世紀もの間、ケンブリッジ大学の書棚に眠っていた。それは彼の原稿(日記)がなぞのような速記術で書かれていたためである。当時、この術を修める人が少なかったために解読者があらわれぬままになっていたからである。このほど、ケンブリッジとカリフォルニア両大学の学者たちが協力してこのなぞの符号の解析に成功したと言う。

 そしてことしの初め、10巻のうち3巻がまとめられて公刊された、と海外情報は伝える。(中略)

 ピープスは若き政治家として27歳から10年間、日々、飽くことなくみずから習得した速記術で、彼の眼と足をもとに速記符号を核として構築された日記への執念と努力に驚かざるを得ないのである。(後略)

 17世紀のイギリスの速記は、現在の速記と比べると未完成のものであったと思われる。

 また、速記を習得した人が少ない時代ではなかったろうか。それだから速記を暗号のかわりに使って日記を書いたのだと思う。

 それはともかく、現在では、速記は暗号となり得るであろうか。私たち速記をやっている者は、第三者に知られたくないことを書いておくのに、速記文字で書くこともあるわけである。しかし、回りに速記を知っている人が多い職場にいる人にとって、速記は暗号とならないことは言うまでもない。

 例えば、速記者が5人いたとする。A式、B式、C式、D式、E式ならば別に問題がないが、A式、B式、C式の3方式ならば、5人のうち何人かは同じ方式だから符号の解読をすることができてしまう。ただし、同じ方式で同じ符号を使用している場合である。

 また、夫婦の場合、別々の方式ならば問題はないが、2人とも同じ方式の場合は、お互いに知られたくないことを書いておくわけには行かない。下手にメモなんかをしておくと夫婦ゲンカの原因にもなりかねない。

 そこで、符号を研究する必要性が出てくる。つまり、これが速記暗号となるわけで、自分用の符号をつくる必要性が出てくる。

 速記は使い方によっては暗号の一面をもっていると言ってもよいのではなかろうか。

 速記と暗号が共通しているところは、どちらも最終的には反訳をし、訓練をしなければならないことである。

 参考までに現在の暗号はほとんどが数字を並べたものであり、通信文を数字に直したものに乱数を入れて暗号文を作成する。

 通信文の数字に乱数をプラスした数字が暗号文になる。

 その逆に暗号文に乱数をマイナスした数字が通信文になるわけである。数字は1つずつ縦に計算をしていく。5+6は11になるが1となる。

 

 例 通 信 文 22275453552124272534322258315823

   乱数() 44683289613799801653119839265411

   暗 号 文 66858632165813073187431087570234

 

   暗 号 文 66858632165813073187431087570234

   乱数() 44683289613799801653119839265411

   通 信 文 22275453552124272534322258315823

 これが現在使用されている暗号の方法であり、無線機を通してモールス符号で送・受信を行っているわけである。通信文の本文はすべて数字であり、本文の前には必ず乱数表のどのページを使用したかを電報用紙に記入をすることになっている。

 通信文の2桁の数字で1文字をあらわしているから、受信の途中で数字を1つでも抜かすと解読ができないのは言うまでもないことである。

 結論として、長田順行氏の言われるように速記は暗号の一部であろうか。

 速記を知らない人にとっては、暗号となり得るものであるが、速記を知っている人にとっては暗号になり得ないと思っている。もし速記を暗号として使用するならば(だれにも読まれたくないものにするならば)新しい符号体系にするしか方法がない。

 

 

なぜ今、速記にこだわるのか

 日本速記界120年の歴史の中で、速記を志した人はかなりの人数になると思います。明治時代と現在の速記方式とは比べものになりませんが、それはそれとして、現在、社団法人日本速記協会で行っている検定試験のレベルで考えてみたいと思います。

   入  門

   初  級(分速 80160字)

   中  級(分速180260字)

   上  級(分速280320字)

   高 速 度(分速330360字)

   超高速度(分速360字以上)

と分けることができると思います。この中で、速記をやめてしまうのが一番多いのは入門から初級にかけての人達です。では、なぜせっかく速記の志を立てたのに途中でやめてしまうのでしょうか。速度練習は単調でつまらないものと考えるからです。分速240字までの練習は、つらい時期だと思います。この分速240字で速記が好きになれるか、嫌になるかの分岐点に差しかかると思われます。つまり、社団法人日本速記協会の3級に合格するかしないかで明暗が分かれてくると思います。ここの段階で速記をやめてしまう人がおります。

それは、分速240字ぐらい書けるようになれば、ある程度のメモ的なことに速記が役立つからで、職業速記者にならなければこの程度で日常生活における速記が間に合うからです。

 しかし、私たちが速記を志したときのことを思い出してみても、職業速記者になるために速記をやったという人は少ないはずです。独習にしろ、通信教育にしろ、最初は速記が役に立てばそれでいいという程度か、あるいはやってみておもしろかったから今でも速記をやっているという人が多いと思います。

 職業速記者になろうと思って、速記学校に入学しても速度が上がらないために速記をあきらめてしまう人が大勢おります。高校時代に(大学の速記研究会も含む)速記部で速記をやっていても、卒業をしてやめてしまう人が大勢おります。

 このような状況をいろいろ考えてみると、全員が完全に速記から離れてしまったのかという疑問が残ります。しかし、一部の人は何らかの形で速記を使用していると思います。「職業速記者」という言葉に対して「アマチュア速記」ということができると思います。ただ、その実態がつかめていないと思います。

 また、中級ぐらいまでいった大部分の人達は途中で速記をやめております。そういう人達は不幸にして速記のおもしろさを知らないでいます。(逆に職業速記者で定年になり速記をやめたという人もおりますが)本当に速記が好きな人なら、もうひと踏ん張りして上級以上になり、職業速記者になるか、速記研究家になるか、速記指導者になって速記界に残っていると思います。

 昭和57年の「日本速記者名鑑」によると速記関係者の名前が6000人ぐらい載っております。日本の人口が1億2000万だとすれば、0.00005%、つまり2万人に1人という割合になります。考え方によっては2万人の中の1人が唯一の速記関係者ということになります。しかし、この6000人は完全に調査をした結果ではなく、かなりの調査漏れの人もいると思います。日本速記120年の輝かしい歴史の中において、速記の普及率を考えてみると先人たちが努力をしたにもかかわらず、非常に低い数になっているのは速記方式が難しかったのかもしれませんし、他の技術と異なりすぐに結果があらわれるものではありません。ただ、速記を習えば早く書けるという、そんな甘いものではないことが速記学習者と他の技術学習者との間に大きなギャップがあるのかもしれません。速記が書けるようになるには、他の技術よりも努力をすることなのですが、どうも途中でやめてしまう人が多いのは残念なことです。逆に言えば速記者は貴重な存在ということになります。あと半世紀もすれば、速記者は人間国宝になるのではないかと思います。

 さて、本論に入りますが、なぜ、私が速記にこだわっているのでしょうか。この結論は登山家が「山があるから山に登るのだ」ということと同じ理屈になると思います。つまり速記者が自分の能力ギリギリで速記をとれたときの快感があるから、速記が好きなのかもしれません。極論をすれば、私の青春時代は速記に狂い続け、曲がりなりにも現在でも速記にこだわりをもっております。私は速度練習よりも速記の文献を読んだり、速記道という精神論に力を入れていたからです。いかに速記を無二の友としてつき合っていくかということを常に念頭に置いております。

 速記を好きになるには、速記のどの分野を好きになるかが必要です。具体的に書きますと、速記術、速記法、速記史、速記論、運筆などが挙げられます。どの分野でもよいから、熱狂的になれるものを見つけることが必要であると思います。そうすると、おのずから速記に対して愛着がわいてくると思います。昔から「好きは物の上手なれ」とか「下手の横好き」などと言われておりますが、私のように「下手の横好き」の人間の方が速記と一生つき合っていけると思います。

 そこにはおのずと、趣味と道楽の違いがあります。「趣味と道楽の違い」については本誌の第10号に書きましたので省略をします。

 私が速記にこだわっているのは、速記を知らない人にとって暗号になるので読まれたくないものをメモしておくのに便利だという理由もあります。私のところは夫婦で同じ中根式でありながら、家内は私の書いた速記文字は読めないところに速記の便利さ(?)があります。最近はパソコンの普及が目覚ましい中にあって、速記を志す人がいることを社団法人日本速記協会から情報を得て心強く思っています。そういう新しい時代の人達が一生速記とつき合っていく方向にもっていくのが我々の努めでもあり、その意義のあることだと私自身思っております。