田鎖綱紀 たくさり・こうき(1854.8.1−1938.5.3)
1854年(安政元年)8月15日、南部藩士の次男として盛岡在田鎖村で生まれた。 王政復古の年15歳で上京、69年大学南校に入学、ウイルソン宅で、ポピュ ラー・エデュケーター誌上でピットマンの速記を初めて見た。72年、R.G. カーライルから速記(スタンダード・フォノグラフィ#1)で書かれた手紙を見 て、英文速記を学んだ。80年、東京麹町元園町に下宿し、日本語速記法の立案に 努力した。 10年がかりで創案活動を続けた結果のち、82年9月19日、時事新報に「日本傍聴 記録法」を発表、同年10月28日「日本傍聴筆記法講習会」を開講した。その方式 は、正円幾何派に属し、基礎符号の関連性は、K=か行、S=さ行、T=た行、 N=な行、F=は行、M=ま行、L=や行、R=ら行に認められる。この講習会 を修了した受講生の中から、日本初の速記者が育った。83年、田鎖は事業母体を 日本傍聴筆記学会と改称して全国規模で速記教育を大々的に行った。 田鎖は、ある依頼に応じてイタリア記簿法を学び1887年、英和記簿法字類を発 行した。これは日本で最初の簿記の単行本とされる。同年、内外教育新報に就職 し、業務のかたわら中国語を学んだほか、のちに朝鮮語やエスペラントも学んだ。 1908年、中国語速記術、朝鮮語速記術を発表、エスペラント速記術は1916年発表 した。 1885年、源(田鎖の一時の自称)綱紀口述、丸山平次郎編纂の「日本傍聴筆記 法」を初めて刊行、1893年には「新式速記術」を発行した。1913年、「大日本早 書学 邦語速記術」が発行された。 田鎖は米K.アンダーソンの速記機械、仏グランジャンの速記機械の記事を読 んで、原稿機の構造を1891年に公表した。田鎖の弟子、藤木顕道が速記器の名称 でこれを製作した。 1894年12月24日、田鎖は速記術創始の功により藍綬褒章を下賜された。さらに1896年、 田鎖は速記術創始の功により年金300円を終身下賜された。1922年、日本 速記協会は速記発表40周年を記念して田鎖ほかを日本速記術功労者表彰した。1924年、 皇太子ご成婚記念祝賀に当たり田鎖は日本速記術発明の功により勲六等を 叙せられた。 1938年5月3日、田鎖は死去、享年85歳。伊藤博文から「電筆将軍」の称号を贈 られ、自作の戒名は「日本文字始而造候居士(にほんもじはじめてつくりそろこ じ)」。
|