人妻
井上 靖

 月は明るかったが、風は強かった。 若者が船窓からのぞくたびに、海一面に三角波が立っていた。 若者はマンジリともせず、船室に坐っていた。 目は血走り、顔は蒼かった。 彼の心の中にも無数の三角波が荒れていた。 その三角波の中で二つ年上の人妻の顔が乱れ、形を整え、また乱れた。 彼はその人妻があきらめられなかった。 遠くからでも、その横顔を垣間見たかった。

 朝、徳島に着くと、直ぐ海岸に沿って走る汽車に乗って、Tという町に降りた。 派出所で訪ねてようやく目的の家を探し当てた。 女は留守だった。 父兄会で小学校へ行ったという。

 放課後の校庭は静かだった。 窓の外に青桐の植っている教室の窓際で、彼女は八歳の女児とともに、受持の先生と対い合って坐っていた。 愛児のシツケと教育について語る、女として最も清潔な時間が彼女を取り巻いていた。 全く別人のような横顔だった。 若者の心から、その時初めて海を渡って運んできたツキ物がおちた。



※ 筆記者はdeme7氏(PGTH式速記法創案者)です。

速記文字原文(hitozuma.pdf…137Kb)

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