完璧な速記方式など存在しない

 何度も述べるのだが、「書きやすさを重んじる」…それも、特によく使われる傾向にある音にはできるだけ書きやすい線を当てるようにした跡が見て取れる。

 そして、そういったことと引き換えに、特に長音表示や濁音表示など、ところどころに例外的な部分も抱えざるを得なかったようである。

 例外が全くなしで、かつ頻出する音に最適線をきれいに当てはめることなど、およそ到底無理な話でもあるのは事実だと思う。

 そんなわけで、50音基礎符号にあっても、各列、各行の規則性としては、全く例外なしというわけにはどうしてもいかなかった点が見て取れる。

 それでも、いったん習得してしまったあかつきには、他の多くの速記方式と比較しても、比較的なめらかな符号群の流れが出現する箇所も多く、 手書き速記方式としての理想を求めて研究開発に苦心を重ねた結果のものであることが十分よく分かるものでもある。

 日本語を書く場合に、音の組み合わせ、語によっては、幾とおりかの書き方が想定される場合も少なからず出現するなど、長所ばかりとは言えない部分もなきにしもあらずだが、 いかなる速記方式も、その方式が抱える長短を併せ呑むことによって成立するものでもあろう。

 石村式がたどった行跡は、一つの速記研究の「あっぱれ」として、その名を留めることであろう。

 完璧な速記方式など存在しない。

 石村式で日本語を書いた場合に、場合によりとても書きやすく美しい線が出て、なおかつ読みやすかった場合など、 「ああ、やっぱり伊達ではない、なっかなかのものだ、うん凄い」と唸ることが今まで何度あったことだろう。

 石村式の速記符号、速記法としての考え方、線の選び方等々、それらすべてには、あの石村先生のよき意味での「怨念(おんねん)」がこもっている…、 そんなことを思い懐かしむ時間も、私の速記人生の一コマである。

(了)