◆◆ 【 執筆後記 】 ◆◆ 76年式の土台として、その1歩手前の研究発表となった67年式。それまでの研究とは一線を画し、 画期的とも称された67年式では、すさまじいほどに整理され、洗練化 された研究展開をみせている。 67年式の内容を脱稿して間もなく、つまり世に出すための原稿を書き終えて間もなく、 消息が絶えていた子息の源一が抑留地のソ連より帰還する。疎開先の宮城県に住んでいた一にかわり、 源一は間もなく上京し、67年式の出版に着手、同時に67年式の講習会を展開していく。 67年式の講習生の熟達成果もすばらしかったようである。 普通ならば、これだけの大作にエネルギーを注いだ後には完全燃焼してしまい、 次なるものを研究しようとか出そうとかと思うまでには至らない。 だが一は、67年式完成の年(1948年=昭和23年 満60歳時)から9年ほど後の1957年(昭和32年)に急逝(享年満69歳)した時点で、 次なる76年式の原稿を既に書き終えていた。一は齢を重ねていく中、67年式にさらなる改良点を見出したのであろうか。 何と人生最後の数年間の間に、明らかに67年式の改良方式と表現して間違いない76年式の創案を成し遂げていったのである。 基本原理は67年式を踏襲するものの、67年式を確実にしのぐ理論の整合性、合理性を携え、さらなる洗練化をも果たしている。
そして、一の研究、創案した符号体系の中には、確実に父、綱紀が独自に研究改良して打ち立てていった速記法のいわゆる「速記文法」の部分こそが確実に、
脈々と流れているのである。 田鎖綱紀のことはずっと気になっていた。やはり綱紀は研究者、理論家であり、最初の開拓者。 生きている次元が実務家とは全く異なっていた。だからこそ、綱紀の存在価値、意義があったのだと、 今になって改めて思うのだ。 変人と思われようが、そのようなことは綱紀はとうに承知で、その上であのようにしか生きられない性分を持ち合わせていた。 奇人であり、長い目で見てどこかしら貴人でもあった。 綱紀とは理論、研究畑の人であり、実務畑こそが時代のスポットライト照射部分だった。 行動、遍歴も、子息の田鎖一もよく知るとおり、変、奇妙であったこと、金に縁のない人生だったことも相まっての世評、 イメージは、どこか相応に定着したままにならざるを得なかった。 ただ、速記の種を拾い、蒔き、苦心して育て始め、端緒を開いたのは間違いなく綱紀であった。その部分を強調したかった。 綱紀に対してはお仕着せになるかもしれぬが、強調してあげたかった。そんな気持ちをここに吐露しようと思う。
(2018年6月4日 平野明人)
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