明治時代
明治8年に松島剛が西洋の速記の本を買って来て友人とともに訳しそれを日本
語に適用して、練習を始め、幾らか書けるようになりましたが、当時はほかにい
ろいろ目的があったので、それっきりになっております。
また、明治9年に畠山義成も欧米の速記の本を見て2〜3人の人と速記の研究
に従事し、新符号を製して世に公にしようとしたが、出版社が出版に応じなかっ
たために、速記の本を発行できませんでした。
そのような人はほかにもかなりいたのではないかと思います。当時は速記とい
うものに関心があっても、実用の段階ではなかったと思われます。
明治15年9月16日に黒岩大の「議事演説討論傍聴筆記法」の版権が免許されて、
明治16年7月に刊行をされました。この本が日本では最古の速記の本だと言われ
ております。
この黒岩式は、アメリカのリンズレー式(Lindsley・1864)を研究したもの
です。リンズレー式と黒岩案との関係は、K→カ行、S→サ行、T→タ行、N→
ナ行、F→ハ行、M→マ行、Yの頭部のカギを取ってヤ行、R→ラ行にしてお
ります。この方式はローマ字綴りをしています。この方式からの実務者は1人も
輩出をしませんでした。
同じく明治15年9月19日の時事新報第169号に楳の家元園子(うめのやもとぞ
のし・田鎖綱紀の戯号)の「日本傍聴記録法」(後に日本傍聴筆記法と改称)という
一文が掲載されました。この一文を見て最初に田鎖を訪れたのが林茂淳であると
伝えられております。明治15年10月28日に「日本傍聴筆記法講習」会の開講式が、
日本橋通4丁目の小林茶亭(貸席)で行われました。
明治15年11月4日から講習会は朝が神田の東京法学院、夜が麹町の三橋家で行
われました。
田鎖式とグラハム式(Graham・1858)との関係は、K→カ行、S→サ行、T
→タ行、N→ナ行、F→ハ行、M→マ行、Yを直線化してヤ行、R→ラ行としま
した。
このときの1期生としては先の林茂淳、若林玵蔵、市東謙吉、酒井昇造たち
がおり、講習会の修了者は24名のうち、後に速記で身を立てたのはこの4名だけ
です。
当時の講習会で6カ月の練習では、そう早く書けないと思います。現在の方式
から見ると、かなり複雑な符号を使っていたので、分速100〜120字ぐらいの速度
だったと思います。
若林たち修了者の何人かは若林を中心に集まり速記の練習に励むことになり、
もっとも若林たちは習ったとおりの速記方式を忠実に守って練習をしたわけでは
ありません。書きにくい符号は改めたり、略字をつくって用いておりました。こ
うして田鎖式も次第に改良されていきました。
このころの方式名を書くと、明治17年には清沢式、明治18年には林式、丸山式、
森本式、明治19年には金山・志田式、明治20年には中村式、明治21年には吉永式、
明治22年には林甕臣(みかおみ)式などがあります。
この中で独特な方式としては森本式があります。従来の田鎖系は、ア列が単線
なのに対して、森本式はウ列が単線です。金山・志田式もウ列に単線を配してい
ます。中村式については、かなり符号の入れかえがあります。
吉永式については、どうも速記方式とは認められないような基本文字を用いて
おります。
林甕臣式は田鎖式とは別の角度からの研究があります。国語学者であり、国語
の発音の研究から速記用の符号を工夫し、発音の模写に力を入れたため、線の用
い方にも独特のものがあります。
明治25年には藤木式、牧田式があり、明治26年には新田鎖式、若林式があり、
明治32年にはガントレット式(Gauntlett)があります。
牧田式はカナ速記です。藤木式は田鎖系ですが、純複画派です。
速水 純複画派というのは……。
滝 ア行以外の5列が、全部複線で構成されております。
新田鎖式の方は、田鎖式を改良したものです。
若林式の方は田鎖式を改良したのが明治19年の若林式であり、その若林式をさ
らに改良をしたのが明治26年の若林式です。
佃式は複画派です。
明治の末期に速記教育論争がありましたね。
速水 丹羽滝男と佃与次郎でしたね。
滝 明治40年9月30日に「日本速記会」という組織が結成されました。
機関誌「日本速記会雑誌」では、速記教育をめぐって独習可能論と不可能論が
対立をしていました。
丹羽滝男の独習可能論「速記法は必ず独習し得べきことを証す」に始まりまし
た。丹羽の解説書「実験速成応用速記法」が、丹羽式の独習書を兼ねておりまし
た。
丹羽の論は、優秀な速記方式の独習書または通信教育によって、学力のある壮
年者が独習をすることを条件としておりました。熊崎健一郎も独習可能論を支持
しておりました。
これに対し、塾形態で成果を上げてきた佃は、独習不可能論を固執して譲りま
せんでした。
佃は速記方式の解説書を書くことが独習者を誤らせるものであるとして、最後
まで佃式の解説書を書いておりません。
当時は、府県会速記技手養成所、帝国速記学会、日本速記専門学院などの通信
教育が誇大な広告によって善良な学習者を毒していたと伝えられております。佃
の主張にも十分な根拠を見出すことができます。
ガントレット式ですが、イギリス人エドワード・ガントレットは東京高等商業
の英語教師として明治23年に来日していました。次いで千葉中学に移り、そのこ
ろガントレットは日本にも速記方式があるかどうかに関心を持ち、田鎖系諸方式
の解説書を入手しましたが、まだまだ改良の余地があることに気づきピットマン
式(Pitman・1837)の再検討から出発をしました。そうして明治32年にガントレ
ット式を発表しました。子音符号で2種類の線を使用したのも、ガントレット式
が最初です。ガントレット式は折衷派の元祖と言ってもよいでしょう。
明治35年には矢野式、明治37年には野崎式、明治38年には武田式、村上式、明
治39年には熊崎式、吉村式、伊東式、井辺式(いんべ)、明治40年には日下部式
があります。
武田式はピットマン式からの研究を始めて、単画派方式をつくりました。武田
式は単画派の元祖であると言ってもよいでしょう。
また、ガントレット式の発表は田鎖系に満足しない速記者の速記方式研究意欲
を刺激しました。そうして習得した速記方式を積極的な改良に進む者を生むに至
りました。そのような立場で独立をしたのが熊崎健一郎の熊崎式です。熊崎式は
田鎖式の改良方式であるといってもよいでしょう。まず基本文字ですが、サ行は
、タ行は|→ / と改めています。そして、イ列の2倍をエ列、ア列の2倍を
オ列、ウ列は、ク、ル、ムが田鎖式のままであり、ス、ツ、フ、ユに新しい符号
を入れています。
現在、折衷派のほとんどの方式がア行とウ列を除いて熊崎式の基本文字を取り
入れております。
明治40年には丹羽式が発表をされております。丹羽式も複画派としては少し変
わった基本文字を採用しております。
明治43年に発表された日下部式は縦書きのカナ速記です。