佃與次郎氏、佃速記塾、佃速記事務所ついて、その他、もろもろ
若林門下の逸材として速記を学んだ佃氏が女子速記法研究会 ( のちの佃速記塾 ) を立ち上げたのは、氏が満22歳になる年の明治21年 ( 1888年 ) だから、今でいうところの大学4年ぐらいの若者である。 その前年、新聞社に入社し、以後も速記を駆使していくが、以下はその佃氏による電話速記の思い出話である。 「 僕は20年前 ( 明治20年10月ごろ ) に新聞社に入った。 新聞と速記が結びつき始めたころで、余り優遇されず、経験なし、文才なしで、『 あります 』 『 ございます 』 で紙面を埋めるのは不届至極と叱られることが多かった。 また各紙を比較対照すると、ハッと顔を赤くすることがたびたびであった。 誰の聞き間違いにしても、速記の過失はみな僕の過失のような気持ちがした。 石炭山を石炭酸、奈良を那覇と聞き違えたりした。 … 」 必死に一発勝負、真剣勝負の実務速記で磨かれていったわけだ。 この新聞社入社時 ( 明治20年 = 1887年 ) 、氏は満21歳の若者。 そして驚くべきは、日本語速記の始祖とされている田鎖綱紀氏が速記を最初に発表した明治15年 ( 1882年 ) から数えてたった5年ほどしか経っていなかったこの頃には、既に立派に 「 職業速記者 」 としての行為が日々なされていたという事実である。 国会の速記としては、明治23年 ( 1890年 ) の帝国議会開設と同時に貴衆両院で採用されたのが最初だが、その国会の速記が始まる何年も前の時点で、既に一定の実用レベルに達していたという前提のもと、さらに改良、進歩といった歩みの上に、国会の速記にも採用されていったわけである。 この新聞社に入った頃には少なくともほぼ十分に実用化されていたとするならば、例えば、さらにさかのぼること1〜2年とかいった頃に相当する明治18〜19年 ( 1885〜1886年 ) あたりには、およそ実務に耐え得る速記符号運用体系が構築、完成されていたであろうと想像されもする。 田鎖綱紀氏の最初の速記法からわずか3〜4年であり、ましてや欧米では行われているけれども、日本では前例のない 「 実際の速記行為の完遂 」 という壁がそこには厳然と存在していた。 そんな壁を前に、歯を食いしばるようにして眼前の灯火を頼りに、使命感、夢、希望といった無形の思いを燃やしながらも、さらにエネルギーを蓄えるようにして、果敢に挑戦していったのである。 「 実務速記 」 という 「 戦場 」 で確実に使える 「 現実派 」 の符号の寄せ集め、さらなる改良進歩のための飽くなき研究、検討が重ねられていった。 その 「 戦 」 における現実の対象として眼前に立ちはだかる、無尽蔵であるかのような 「 言葉 」 そのものに対し、真正面から事に処し、積み上げていくことのみにより構築されていった 「 速記符号運用体系 」。 それこそは、若林氏、佃氏といった明治に始まる実務速記の 「 戦士たち 」 によって立ち上げられていったものなのである。 「 田鎖綱紀氏の最初の速記法からわずか3〜4年 」 と述べたが、実際には 「 1〜2年、2〜3年 」 であったのかもしれない。 また、明治21年5月には、「 東京市で 『 菊花栽培法 』 の対談会が催され、若林玵蔵と門弟の佃与次郎らが速記し、小冊子になり配布された 」 というが、これは若林氏が満30歳、佃氏が満22歳の頃の話である。 さて、ここで国会の速記に話を転ずるのだが、大正7年 ( 1918年 ) に開設された貴族院、衆議院それぞれの速記練習所 ( のちの速記者養成所 ) の教官は、若林門下か、さらにその門下の人たちが圧倒的多数を占め、若林一門の国会における勢力は絶大なものであったという。 したがって、この速記練習所の開設年にあって満52歳を迎え、若林氏の高弟としてのみならず、長年にわたる実績と信用、信頼を一身に浴びる佃氏の国会速記における影響力、位置は、ましてや推して知るべしである。 ほぼ手書き速記に頼るしかなく、速記の使い手に対する需要の高かった時代、実務畑における花形的実体でもあったのが、これまで述べてきた若林、佃といった田鎖式系統の速記である。 「 若林案、若林式 」 とか 「 佃式 」 などといった呼称も定着してはいるが、それらはまた、広い意味での 「 田鎖式 」 そのものでもあるとともに、その 「 田鎖 」 の名の大元である 「 田鎖綱紀 」 という偉人が開発したものからは既に完全に巣立ち、独り立ちしていったものでもある。 そして、佃速記塾で教えられた速記符号も、佃氏が若林氏より学んで実務に就いた頃、衆議院速記課に在籍していた時代、そして後進を育てていかれた各時代といったそれぞれの時点で、その都度、さらなる改良研究がなされ、進化、発展し続けていったのではなかろうか。 そもそも速記方式というものは、さまざまな実務家が実務で使うことによって速記法体系がさらに鍛え上げられていくものであり、そういったこと自体が一つの速記方式の成長過程そのものでもある。 実際の速記現場からのフィードバック情報等によるものをも含めて、各人、各案の相互交流、相互影響による速記符号の変化、発展というものどんどんなされていく。 そして、まさに速記とは、時代とともにあるわけである。 西来路秀男著 「 速記入門ハンドブック 」 ( 昭和30年11月15日発行 株式会社ハンドブック社 ) にも掲載されているとおり、昭和30年11月当時の各式の速記教育機関として、「 佃速記塾 〔 東京都杉並区 〕 指導 ・ 萩谷哲夫 ( 田鎖系佃式 ) 」 「 高嶋速記研究所 〔 大阪市阿倍野区 〕 指導 ・ 高嶋作郎 ( 田鎖系佃式 ) 」 とあるように、佃氏から発したところの 「 佃式 」 として、その後、どの程度変化した速記符号体系が教えられていたのかは分からないが、佃氏の没後およそ四半世紀ほどを経てもなお 「 佃式 」 として教授されてもいた。 佃氏自身は昭和6年 ( 1931年 ) に満65歳で亡くなっているが、その後も佃速記塾は継続され、速記の使い手の養成が地道に行われていったわけである。 今回取り上げた 「 鉛筆のラベルに書かれた速記 」 だが、その当時、実績ある著名方式である田鎖式系統の速記 ( 若林〜佃〜といったあたりが最有力か ) の使い手であるとか、有力で信用のある速記事務所の人であるとか、そんなあたりに依頼して書いてもらった可能性も高いのではないかと、普通に考えて想像することもできる。 「 佃速記事務所、佃速記塾 」 といえば、信用と実績のある一つの集団、グループ、系統として、最たるものだったのではないだろうか。 【 参考 】 ↓ 「 日本速記方式発達史 」 P103より抜粋引用 ( → 基本的に旧字体のままだが、一部、新字体のものあり。) 古くから田鎖系の普及に努力した人として、私達は前記荒浪氏の外に佃與次郎氏を忘れてはならない。 たゞ氏は速記獨習不能論を稱へてゐた為に、獨習書的な著作を残さなかつた。 私達はその門弟の一人、生稻寅松氏の基本文字を伺つて見よう ( 第57圖 )、もつともヤ行の直線化は生稻氏の行つた成長で、佃氏は正曲線をヘへてゐたやうである。 ↑ 生稻案 ( 五十音速記符号 ) ( = 少なくとも五十音速記符号に関しては、恐らくはほぼ佃式そのものだったのではないかと想像することもできる。 ) |