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![]() ![]() この解読難という袋小路状態が随所に現れる場合、 文章群 (速記符号群)の文意の大ざっぱな骨格をつかむことさえおぼつかなくなる。 不明箇所が多ければ多いほど、文脈、 前後関係といったもので解読を容易ならしめる箇所が減ってしまう。 それにより、容易に解読できた部分の訳でさえもが疑わしく思えてきたりする。 なお、ここで述べている 「速記符号の乱れ」 には、「符号の長さ、書かれる方向の異なり、円の大小、符号の濃淡」といったものの区別が不十分であったり間違ったものであったりする場合の他に、「濁音表示のためのドット」の省略等も含めて語っていることとする。
1500ページ近い枚数に書かれた速記符号の第三者解読作業を始めるに当たっては、まず最初にその分量の多さに卒倒しそうになった。 卒倒しそうになった・・・とは大げさながらも、正直、確かに身構えてしまったものだ。 しかしながら、「そもそも解読者が解読できる範囲でしか解読できない」という開き直りのような感覚で観察すれば、「読める箇所をどんどん解読していくだけだ」とも言える。 解読作業は私を含めた4人の解読メンバー(解読仲間)によるもので、 私はいわゆる第一解読者、つまりはジャングル踏査の下草刈り作業員のようなものだ。 要解読ページ数の多さとも相まって、とにかく読める箇所をどんどん解読していくという行為を「ただただ馬鹿になって続ける」 といったことが第一に求められるととらえていた。 他のメンバーにとっては「はた迷惑もいいところで、他人が訳した不完全訳の各所を逐一チェックしつつ、 見解が異なる箇所を明示し、推敲を重ねるという行為を延々と継続しなく てはならないのだ。 ましてや第一解読者が解読することのできた箇所は「訳せるから訳せた箇所」 であり、 他のメンバーにとっては「解読難度の高そうな部分」 ばかりがやけに目につくという悪環境下。 「何だかやりたくなくなる作業」といった色合いが第一解読者である私よりはるかに高かったのではないかと、 今になって改めて推察し直したりする。
「しばらく寝かせる」 とは、 解読者自身が睡眠をとるということではなく、 「わからない部分は放っておく」という意味だ。 このやり方で間を置いた末、思わぬ閃きなのか、 突如として正解訳が啓示のごとくもたらされることが幾度もあった。 また、 「絶対に読めないだろう」と諦めていた箇所が読めてしまうことも幾度かあった。 なお、解読者の睡眠、疲れの除去が重要であることは言うまでもない。 人間工学的にというか、やはり根を詰めていると作業の精度はあらゆる面で低下するものだ。 どんどんページをこなす必要に迫られる中、 空いた時間を小刻みに活用しつつ、 少しでも継続のためのエネルギーがくすぶり続けるよう留意した。 とはいえ、ついつい根を詰めてしまったこともしばしばで、その反動か、何日も解読作業自体を寝かせてしまったことも幾度があった。
書かれた符号が幾ら乱れているとはいえ、意識を持った書記者が真っ当に書いたものである以上、必ず正解は存在するわけだ。 書いた本人であれば、少なくとも我々解読者よりもはるかに高い精度(もしくはほぼ完璧に近い精度)で訳すことができるのは、およそ言うまでもない。 そんな思いも抱えながら、不明箇所だらけのページを眺めていく日々。 そうこうしているうちに、これまた突如としてある部分がひも解け、そこから地すべり的に諸所がひも解けていくという体験。 これら全てが第三者解読の苦労話としての濃厚部分であるとともに、まさに自己満足ながらもやりがいを感じられる部分でもある。
速記符号とともに書かれた「数字」 にも随分と乱れが散見された。 書かれたものに忠実に訳すとはいえ、明らかに「聞き違い、書き違い」 とわかるものはその旨を明記した上で複数訳を示し、どうしても解読不能と思われるものについては不明とした。 「書かれたものに忠実に訳す」 というのは、第三者解読における解読者の恣意性を排除するという意味でも、まさに前提条件的な重要基本姿勢とも言えるものだ。 このことは「数字」の取り扱いのみならず、全体にわたって常に留意した点である。
数年間にわたる解読作業の流れの中で、「解読合宿」なるものが数回にわたり開かた。 今回の第三者解読を依頼してこられた大学教授の先生方と解読メンバー全員により、 解読不明箇所を中心とした解読精度向上のための検討が行われた。 解読者としての我々速記者側がまさに「解読の袋小路状態」にある際、 文章内容の分野自体の専門家としての教授先生方の 「訳候補」なるものが、例えば以下のように示された。 教授先生方: 「そこは○○じゃないですか」 解読者側A:「ええ、ううん、 それは速記符号上、あり得ませんねえ」 解読者側B:「そうですね、 符号上はその音で始まることは全く無理がありますかねえ」 解読者側C: 「□□ならあり得るけど、 〇〇はどうしてもないでしょうね」 解読者側D:「符号が乱れ過ぎてて読みようがないですかねえ、まあ保留とするしか・・・」 また、以下のように、ハッピーエンドになることも決して少なくなかった。 教授先生方: 「そこは○○じゃないですか」 解読者側A: 「ええ、 あっ、はい、そ、そのとおりです、 間違いありません」 解読者側B:「うん、うんうん、なるほど、ホントですねえ」 解読者側C:「どうしてわからなかったのかねえ、言われてみれば確かにそのとおり」 解読者側D: 「わかってしまえば何とやらだけど、 ああ、これでスッキリしたね」
解読依頼者より提供された資料には、固有名詞を初めとする各種語が含まれていたりもした。 速記符号だけでは確信を得られない訳や全く不明だった訳も、実際の資料と速記符号との突き合わせにより瞬く間に解決されたケースがあった。
解読メンバー相互間では当然ながら見解が異なることがある。 それらの中には互いに納得し合わずに決着のつかない場合もあった。 しかしながら、各人の意見をすり合わせる中、 自分自身では考えもつかなかった 「正解に違いない解」が他のメンバーがらもたらされることのいかに多かったことか。 「速記符号の書き手本人の書き癖や非正規の書き方等」を解読メンバー間で共有しつつ、 解読開始当初とは比較できないほど精度の高い解読結果を得ることができるようになっていったことが嬉しく、懐かしい。 (了) [ ← Back ] |